底辺と還元

クリッピング時に「格差」という文字を目にしない日はない気がすると思った
ある日、「『社会の底辺』で生活をしている知り合いがいる?」と尋ねられた。


知人の顔を1人ひとり思い出してみた。答えはノー。
転校をしたせいもあって、小学校時代の友人はゼロに等しい。
中学校時代の数人の友人も、社会の底辺にはいない。
高校時代の友人は、みんなそれなりに進学していったし、
今もそれなりの生活を送っている可能性が高い。
大学に至っては言わずもがな。


あたしの家はお金持ちではなかったけど、ひもじい思いをしたことはないし、
教育の機会も存分に与えてもらったし、大学まで行かせてもらった。


あたしの両親は元教員なんだけど(その割に私はまっすぐ育ったと思う)、
2人が教育者として話すことが、あたしの心を打つことはあまりない。
ただ、一度だけものすごく響いたことがある。


大学に入学して、新しい環境にウキウキしていた頃、一通の手紙が届いた。
父親からのものだった。彼から手紙をもらったのは初めて。
その手紙の終わりにこんなくだりがあった。


「君は今からとても素晴らしい4年間を過ごすだろう。
ただ、君のそういう幸運は、勉強をしたくてもできず、食べるために
一生懸命働かざるを得ない環境にいる『君と同じ世代の人たち』にも
支えられていると自分は思う。そのことを忘れてほしくない。
そして、勉強したことを社会に役立ててほしい」


「説教されてる」という感覚はなかった。
その内容は心の中にすとんと収まった。


法に触れることによって稼いだ場合を除けば、自分が使えるお金は
堂々と使っていい。これは当たり前のこと。
それが自分ではなく親や配偶者が稼いだお金だとしても同じ。
だから私は堂々と大学に通ったし、今も堂々と(細々と?)消費をしている。


でも、電気も水道も文化もない完全自給自足生活をたった1人で送っている
わけではない以上、我々の生活は、多かれ少なかれ社会を構成する様々な
人々の存在の上に成り立っていると思う。
お世話になっているつもりがない人のおかげで生きていたりもする。
今生きている人だけではなく、過去の人間や未来の人間も含めて。
私たちは、ともすればそのことを忘れがちだと思う。


稼いだお金で豊かな暮らしをすることが悪いことだ、と言っているわけではない。
もちろん私たちはその対価としてお金を払っているし、納税もしているわけだし。


ただ、上手く説明できないんだけど、私は父の手紙を読んで以降、
社会のおいしいところを食べたら終わり、ではなくて、食べたことを
何らかの形で社会に還元しなくてはいけないな、と考えるようになった。
結果、まだおいしいところを食べていない人にも何かが行き渡るような還元を。


バラ撒き福祉をしろとか、3兆円払おうぜと言ってるわけじゃないんだけどね。
食い逃げはしないようにしよう。
ヨイトマケの唄を聴きながら改めてそう思った。


考えがまとまらないままだらだらと書いてしまった。