ギロン

人と酒を飲んでいる時、「小さな議論」が始まることがある。
しかし、そういう場合、私は得てしてあまり発言をすることができず、
後でここにメモをしたり、「実は私はこう考えておりました」という
メールを後で送ったり、ということが今まで非常に多かったような気がする。
特に、相手が親しい人ではない場合。


これ、あんまり良くない気がしていた。なんとなく。
でも、そもそもどうして私はこやつのことが苦手なんだろう?
理由をちょっと考えてみた。


1つめの理由は、頭の中でぽわんと浮かんだ考えを、浮かぶそばから
言葉に変えることがなかなかできない、ということ。
自分の思考のトロさと表現力の乏しさが本当に恨めしい。


2つめ。
ごくたまに、思いついたことが上手く言葉に変わることもある。
でもそれを口にしようとする直前に、飲み込むことの方が多い。
理由はタイミングだけじゃない。
何よりも自分の考えに自信がないから。


最後の1つ。これはなんか上手く説明することができないんだけど。
議論が終わった後で、あるいは酔いが覚めた後で、
「あの時の私の主張は、正しくなかった…」というふうに
自分が振れる瞬間がイヤ。
というより、「私が振れた」と後で他人から認識されるのがイヤ。


はじめ、私はこれらの3つに深いつながりがあると思った。
でも、考えている内に、確かにつながりはあるが(特に1つめと2つめ)、
なんだか別問題のような気がしてきた。
解決するなら個別にやった方が良さそう。


1つめの問題を解決するためには、知識を身につけなければならない。
2つめの問題を解決するためには、自分に自信を持たなければならない。
最後の問題を解決するためには、議論中に変わる自分を許容しなければならない。


今までの私が一番苦手だったのは、実は3つめじゃないだろうか。
1つめが最大の難関だ、とはじめは思っていたけれど。


自分の変節が良くないことだと、なんとなく決めつけている私がいる。
自分に自信があるわけでもないのに。根拠もないのに。


後でいろいろ1人で考えるのも悪いことではないかもしれないけど、
周りに人がいる時にきっかけをもらった方が、考えの幅が広がるんじゃないか。
私は、変節を恐れすぎることによって、多くのチャンスを逃していないか。


言葉は生き物。
だとすれば、その親玉である考えは、ますます生き生きと形を変えても
おかしくないはず。変わらない場合ももちろんあるけど。


自分に自信がないという割に、自分の考えが変わるのが嫌だというのも
良く考えれば変な話だ。
しかし、私はなぜ、議論によって自分の考えや言葉が多少形を変えることを
そんなに恐れているんだろう。


私はまだ完成されていない。
それどころか、一生完成することはないだろう。
未完成の今の段階で自分が変わることをためらってどうするのか。


今思いつく理由。
私はギロンに勝ち負けの存在を感じすぎていた。
もしくは、その存在を求めすぎていた。
で、負けるのが嫌だから、ギロンに飛びこむのをためらってばかりいた。
「勝ち負けなんて関係ない」なんて言いつつ、本当は負けず嫌いなんだな。
まだ他に理由はあるかもしれないけど。


今後は、議論から逃げない努力を少しずつしようと思っている。
「もし自分が議論によって振れたとしても、議論に負けたとしても、
その結果の良し悪しなんて、今すぐに分からないことが多いんだよ。
それどころかずっと分からないかもしれないんだよ。やってみようよ」
と、自分をなだめすかしながら。


ま、心から信頼している人からは、自分が振れるようなことを言われるどころか、
メタメタに否定されても平気なんだけどね。